鈴木朖字は叔清、常介と称し、離屋と号す。明和元年三月三日西枇杷島に山田重蔵の三子として生る。重蔵は三河の人鈴木世阿弥の裔なるも山田氏に贅し医を業とす。離屋少時医を学びしが十八才祖父の家督を継ぎて鈴木を称し町儒者となる。
離屋幼にして神童の誉あり、十才にして能く文を属し、歳十五にして名を諸名士の中に列す。性剛毅にして体節有り。己を信ずる者を択びて後之れに与す。二十才明倫堂初代督学細井平州の招請を受くるも之れを退け、二十九才本居宣長に心折し其門に入る。三十二才尾張藩御近習組同心となり五十八才儒者に挙げられ、歳七十にして明倫堂教授並となり国学を教授す。
離屋和漢の学に邃きを以て其著頗る卓見に富む。特に其語学に於ける創見の如きは尋常学者の企及すべからざる処なり 著す所、言語四種論始め世界的名著希雅、雅語音声考、活語断続譜等多数あり。
天保八年六月六日ここに歿す。享年七十四、久屋誓願寺に葬る。墓碑は昭和三十八年名古屋市文化財に指定さる
語句註:叔清:しゅくせい、常介:じょうすけ
離屋:はなれや
贅す:ぜい・す。いりむこ(女婿)となること。
邃き:おくぶかき。学問や道理が深く精妙で知りがたい。
企及:ききゅう。匹敵すること。
(附記:現在墓碑は文化財指定から外れております。また近年墓石表面剥落し、新たに建立いたしました。)
鈴木朖学会では、代々伝えられてきた朖の書や軸、古書店などで買い求めて蒐集した版本、朖と親交のあった丹羽嘉言、丹羽盤桓子、植松茂岳の書などを保管しております。
『鈴木朖』(昭和42年刊)に掲載されている年譜に加えて、150年忌(昭和62年、熱田神宮での催し)、170年記念(平成19年、名古屋市博物館)を行った際に作成された年譜などを総合的にまとめたものです。
(昭和42年刊) 鈴木朖没後百卅年忌(鈴木朖顕彰会)を記念して出版されました。鈴木朖を捉える上で、まずは最初に目を通すべき書籍であります。
(昭和54年刊) 朖の学問観を述べた著書「離屋学訓」を翻刻し、杉浦豊治先生が釋を附した本です。鈴木朖を理解する上に、目を通して頂きたい一冊です。
(平成22年刊) 鈴木朖の『離屋集初編』の後刷一冊本の影印と、それに対する訳注(杉浦豊治先生、鵜飼尚代先生による)とを収めました。呉銭泳による序に続き、朖自身による自序、堀田中倫による序言があります。
(昭和56年刊) 鈴木朖が大学と論語の注釈書として書かれた版本をそのまま影印しています。本文に朖が返り点等を付け、一語一語に注釈を施しています。
鈴木朖学会 学会誌 第1号~第30号 朖の命日(旧暦6月6日)にちなみ、昭和49年から毎年六月に鈴木朖学会講演会を開催しておりました。諸先生方の講演記録を掲載し、加えて朖の著作や関係論文の復刻・影印も入っております。