文莫 第三号 表紙
本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。
目次
一、鈴木朖についての寸感・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・佐藤 茂
二、田中道麿の松坂訪問・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田 隆
─宣長と道麿─
三、榛木翁書簡五種・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中西 慶爾
四、離屋読書説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・杉浦 豊治
─書誌・論説─
五、鈴木朖の養生要論・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・舟橋 寛治
六、三大考鈴木朗説及同複刻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・尾崎 知光
七、柴田・芝原にかんする事ども・・・・・・・・・・・・・・・・・・・水野 清
─「文莫」一号拙稿の訂正─
八、[紹介]
中西慶爾著『稿本田中道麿伝』
北岡四良著『近世国学者の研究』
(冒頭抜粋)小生が言語学・国語学の方面にすすむきつかけとなったのは、旧制二高にて、三年間、岡沢鉦治先生のお教へをうけたことによる。よつて、この方面に関することは、すべて岡沢先生のお教へから発するのである。
昭和八年四月、第二高等学校に入学し、岡沢鉦治先生に師事したわけであるが、同時に、先生の御著書・論文もあれこれと探すやうになつた。そのとき、見出したものの中に、若き岡沢鉦次郎(もとの名)先生の 教科参考日本文典要義 があった。本書の付録に「文典学参考書」といふリストがあり、27ペイジにわたつて、和洋の書が示されてゐる。その中に ◉鈴木朗、雅言音声考 とある(5ぺ)。〈鈴木朗〉といふ名、〈雅言音声考〉といふ書名を知つたのは、このときがはじめてである。ちなみに、◉は〈必需ノ参考書〉の符である。学生は必ずもとめよの意である。
まへがき
一 道麿の死と宣長
二 道麿の松坂訪問
三 道麿の鈴屋入門
四 万葉門聞抄のことなど
五 結びに代へて ─宣長書簡一通─
第一
こなたゆはおこたりがちに過行まゐらせさもらふを、年のはしめのほがひの玉づさおくり玉ひつ。いとうれしみつゝをがまひまつる。
第二
先頃名酒二坪被下飯木にて封切り両夜たのしみ人もよろこばせ 。扨ゝうまかりし事忘れがたく、かたじけなくと玄亀公へ御礼御傅へ奉願 。
第三
鈴木庄左ヱ門被参 に付一筆啓上仕 。弥御安康可被遊御座奉珍重 。誠ニ先々月ははゝきゞの巻御かし被下、悎に恩借仕 。
第四
御細書忝拝御安静被遊御座奉珍重 。然は御詠歌めで度御調被成 御事と奉存 。八論悎に落手仕 。
第五
先頃幸ク幸便に御状被下 所先以御安康之段奉珍重 。然は愚老早春より可参申上 については定て御まち被下 について御邪魔にも相成 事 ひつらんときの毒仕 。
右「榛木翁書簡五種」は田中道麿が郷里の門人柏渕籐左ヱ門に與えたるもの、末孫柏渕東氏の所蔵にて二曲屏風に仕立てありしを、大正十一年四月大久保休吾氏が写しおかれしもの也。原本は東京震災にて焼失せりといふ。当時大久保氏より得たるものを今日にいたつて浄書するに、誤写かと思はれる点多少あれども、今は詮なし。往事茫々たり。
昭和五十一年七月廿六日
朱実艸舎にて 中西慶爾しるす
一
離屋読書説不分巻 一冊 鈴木朖撰 闕名氏謄写 寛政十一年転写本
二
以下、『読書説』のうち孝経・論語・孟子の各篇から、特に四つの材料を選択して、これらを敷衍することによって、朖学とはいったいどういうものなのか、内実の一端をさぐってみよう。
一、読孝経から
二、読論語から
三、読孟子注疏から
三
この土地に興隆した学問、今これを尾張藩学というように呼称すると、当藩の施策・経綸と直結する学問、ないしは藩校明倫堂が主宰する学問教育を意味するようにとられる懼れがあり、そうかといって尾張学では、輪廓が大きすぎてその核質がぼやけてしまう心配がある。そこで那古屋学とするのが妥当ではないかと愚考する。
〔附〕 某童子の画に題す
鈴木朖は、医者の家に生まれただけあって、医の事には、大変関心を持っていたらしい、然し朖は、少年時代から医者を嫌っていたらしく、早くから漢学に志ざし、十五才の時にはすでに一流の儒者と肩を並べている。然しながら、朖は晩年まで医に関する著述は何もしていない。
古稀を迎える頃になって、余りにも世人が、自分達の健康について無智であるのを憂えて、得意の答問式文章を使って、解し易く、平易で、庶民に判り易いことを主として、此養生要論をものしたらしい。
一 「三大考鈴木朗説」といふ著述がある。これは現在、東京大学の本居文庫に蔵せられてゐるもので、かって本居大平の蔵書中のものであった。このたび、その複刻を許されたので、とりあえず簡単な解説を付すことにする。
二 服部中庸の『三大考』は師の『古事記伝』にもとづきつつ、さらに自説を加へ、「天(アメ)、地(ツチ)、泉(ヨミ)」の三つについて論じたもので、宣長はこれに加筆し、「古事記伝十七之巻附録」として自著に収めた。しかし、この著は、宣長の死後、本居学派の間に賛否両論をひきおこす問題作となった。
三 鈴木朗に、三大考についての論があったことは、前記のやうに篤胤や茂岳の著書によって知られるが、その内容は全く知られてゐない。それを明らかにするものが、本居文庫のこの資料である。
四 「三大考鈴木朗説」といふのは、実は書名ではなく、他人が心覚えのため記した標題にすぎない。
その全文を示して、これを世に明らかにしておく方がはるかに有意義であると思われるので、所藏者のお許しを得て複刻することとした。
中西慶爾著『稿本田中道麿伝』
北岡四良著『近世国学者の研究』