本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。
目次
一、『紫式部日記釈』引用の鈴木朖の注釈・・・・・・・・・・・・・・茅場 康雄
二、鈴木朖の明倫堂学士不採用について・・・・・・・・・・・・・・・尾崎 知光
三、文化五年熱田社奉納和歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・簗瀬 一雄
─解説と翻刻─
四、菅江真澄の丹羽嘉言への入門・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲 彰一
─真澄の漢学カリキュラム─
五、鈴木朖の『江戸桜暦』について・・・・・・・・・・・・・・・・・尾崎 知光
名古屋の国学者清水宣昭の『紫式部日記釈』四巻は天保五年に刊行された紫式部日記の注釈書である。『日記釈』の注釈は考証を重んじながらも、口語訳を用いるなど、初学者を意識した啓蒙的な面を持ち、明治以後、書名を『紫式部日記註釈』と変えながら昭和初期まで刊行されていた。
鈴木朖の墓誌は、その最も身近な弟子、丹羽勗の記したものであって、伝記としての資料価値の大きいものである。
明倫堂開設の時に、かようなささやかな事件があったことは事実であろう。では何故、朖はその勧誘に応ぜず、遺棄せられたのであろうか。そこには彼の学問と、平洲の学問との間の根本的な相違が、その理由として存するように思う。このことについて少しのべてみたい。
さてここに、鈴木朖が細井平洲を批判した珍しい一文(朖の自筆ではなく、その転写)がある。これはもと植松氏のもとに在ったものであるが、今は本居宣長記念館に蔵されている。この文には他の一篇と併せて「鈴木先生雑文二首」と題されているが、二つはもとより別々のもので、これを併せて題名を付けたのは、植松氏(茂岳か又はその後か)であろう。
鈴木朖 墓碑
鈴木先生雑文二首
『離屋詠草』巻三は文化五年(一八〇八)年の作品を記録するのであるが、その中の歌を含む熱田社への奉納和歌に気付いた。鶴舞中央図書館に蔵する名古屋市史の資料で、明治四十年に蒐集のために新しく写したものであるが、原本も他の写本も無いらしいので、翻刻をしておくことにする。『離屋詠草』によって、朖が正月十日に詠み、十八日に提出したことが判るので、奉納は十八日か、それに近い日であったと思われる。主唱者は恐らく植松有信であろう。
文化五年熱田社奉納和歌 ─解説と翻刻─
尾張文人画の祖と伝えられる丹羽嘉言は、当然、漢文学にも造詣が深く、絵画の外にも種々の筆録を遺していたことが知られている。
それらは一括して「謝庵三筆─謝庵漫筆・謝庵醒筆・謝庵醉筆」として扱われ、その中の主要なものは、抜粋して、嘉言門下に一人、鈴木朖が編纂、「謝庵遺稿」と名付けて刊行した。
ただ、同門下となった菅江真澄に関する資料は含まれず、僅かに「謝庵遺稿」中の一篇─「重修清閑亭記」の記事に、重修宴参会客─四名の内の一人として、「白井秀超(─真澄の前名)」を見るのみである。従って、真澄の嘉言への入門の経緯は、現存刊本以外にこれを求める外はないと認識されて来たのであった。
一、はじめに
二、謝庵醉筆総目
三、内容の一斑
四、真澄関連部分
五、真澄就学部分
六、富岡鉄斎書入
七、解説と考察
八、むすび
もう遠い昔になったが、愛知県立女子大学で、先輩教授の市橋鐸氏から、鈴木朖が江戸在住の時、江戸の各所の桜の開花を記したものがあって、それが近ごろ出たある奥の細道の注釈に引用されている。よくも鈴木朖の記録のような人目にふれないものが引かれたものだとのお話をうかがったことがあった。