本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。
目次
一、くじ(孔子)はよき人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・岩田 隆
─本居宣長と鈴木朖─
二、『源氏物語玉小櫛補遺』の注釈・・・・・・・・・・・・・・・・・茅場 康雄
三、日本語学史の構想と鈴木朖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・飯田 晴巳
─断続の系譜をめぐって─
四、鈴木朖の「文学」と「言語」・・・・・・・・・・・・・・・・・・趙 菁
─『離屋学訓』をめぐって─
五、上田甲斐子の和歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・簗瀬 一雄
これからお話しいたしますのは、ここに展示してありますところの、本居宣長が鈴木朖に与えた一幅の書跡についてであります。
話は思いつき以上の何物でもなく、とりとめのない感想に終始するかと存じますが、これまたご海容下さい。
その書幅は次のようであります。
鈴木朗主のおくられ
たる書にもろこしの
孔丘をほめられたる事
のあるをわれもうへな
ひてよめる 宣長
うつそミの世人あさむく
せいしんのたくひならめや
くしハよき人
序でながら、当時は濁点をふらないのがふつうでありまして、それぞれ、「うべなひ・諾」、「あざむく・欺」、「せいじん、聖人」、「たぐひ・類」、そして、「世人」は「よひと」と読みます。
この短い書幅の中に、鈴木朖、本居宣長、孔子(孔丘)と、たいへんなお方たちの名があり、それだけでも興味深いのであります。が、その前に、この書幅が、何時、どのような経緯によって書かれたのか、その成立事情を確かめておく必要があろうかと思います。
まず、「鈴木朗主」が宣長に奉呈したという、「おくられたる書」についてですが、これが『離屋集初編』(文政十一年刊)所収の「送本居先生序」をさすことは、すでに先学の指摘するところありました。しかし、この「序」のもつ意義については、ほとんど言及されておりませんでした。また、その成立時についても、寛政元年の春というのが通説とされておりました。
これに対して、尾崎(知光)先生は、「「送本居先生序」について」(「文莫」第十五号)という論文において、綿密、周到な検討を加えられ、その成立が「寛政四年三月」、宣長の尾張出講の時であることを立証され、かつまた、その核心をなす思想が、孔子と宣長に相通じる、いわゆる「名分論」であることを明らかにせられました。その上で先生自ら訓点を施された「送本居先生序」と「馭戎概言序」の二篇を付録として併載して頂いたのは、まことに有難いことであります。
江戸時代後期の尾張の国学者、鈴木朖の『源氏物語玉小櫛補遺』はその書名が示すように、本居宣長の『玉の小櫛』を補完する目的で著された源氏物語の注釈書である。跋文には、
故鈴屋大人の玉小櫛は、成りはてざる書にて、後
の補ひをまたるゝ心なる事、奥書にいはれたるが
如し、おのれ今其の志をつぎてかく物しつるも、
猶たゞかたそばにて、更にたらへりとはいふべく
もあらず
とあり、師、宣長の遺志を継いだ旨が記されている。
『補遺』は大部とは言えない注釈ながら、後に『源氏物語評釈』において萩原広道が重要視した注釈書のひとつである。『増註源氏物語湖月抄』(明治二十三年刊)に『玉の小櫛』、『評釈』などと共に活字化され容易に見ることができるが、必ずしも正確な翻刻ではない。現在は、版本の影印、『源氏物語玉小櫛補遺』が鈴木朖学会から刊行されている。本稿は、底本に影印『源氏物語玉小櫛補遺』を用いて考察を進めてゆく。
一 日本語学史の構想
(一)日本語学史の現在
─これまでの日本語学史の方法─
1 これまでの日本語学史に記述の範型
2 呪縛としての進歩史観
(二)日本語学史の構想
─日本語学史の記述方法─
1 時枝誠記の日本語学史の立場
2 前田富祺の日本語学史の立場
3 日本語学史の構想
─日本語学史はどう記述されるべきか─
(三)日本語学史における江戸時代の日本語研究
の位置
─日本語学の水準としての鈴木朖の価値─
二 鈴木朖の断続はどのようにして生まれたか
(一)鈴木朖の断続観
1 朖の断続観─『活語断続譜』の断続と
オリジナリティー─
(1)断続ということ
(2)断続により活用の形を八等にわける
(3)橋本文法につながる現代性
(4)『断續譜』の成立
(二)断続の系譜─鈴木朖の断続はどこに
位置づけられるか─
1 断続とはなんぞや
2 断続の系譜─朖の断続観はどこに
位置づけられるか─
(1)断続というもの
─『一歩』にいたる道筋─
(ア)断の系譜の諸相
(イ)続の系譜と続とはなんぞや
(a)続の系譜と続とおぼしきものたち
(b)続のかたち─続と続柄の弁別
(2)断続の系譜─『一歩』の続を中心に─
(3)断続の系譜─朖はどう位置づけられるか─
(4)朖の断続の契機─朖の断続はどのようにして生まれたか─
(5)断続の系譜
一 はじめに
文政十一年(六十五歳)に刊行された『離屋学訓』は、鈴木朖の学問論が窺える書として知られる。しかし、従来の研究において、この書についてまだ十分な検討が加えられているようには思わない。
そのなかで、時枝誠記が本居宣長の『初山踏』との比較を論じた「本居宣長と鈴木朖─初山踏と離屋学訓について─」(『解釈と鑑賞』一九四三年九月)が最も知られている。時枝は『離屋学訓』と『初山踏』の分類の違いについて、宣長では「言語的理解、言語的表現」が学問の一分科とはまだ考えられなかったが、朖はこれを学問の一分科として認めてきたと論じた。しかし、『離屋学訓』と『初山踏』において、言語に関しては同一概念で処理することは妥当であろうか。
本稿は『離屋学訓』における朖の学問分類を見渡し、彼が求めた学問とはいかなるものかを考えるにあたって、『離屋学訓』の四科(文学・徳行・政事・言語)の中で基本とされる「文学」を分析し、さらに彼の独創性を「言語」科において見出すことを試みる。
さらに、朖の考えの根底における国学と儒学の融合を再認識することを試みる。以下、彼が『離屋学訓』において独特の学問体系を究め、形成していく実態を明らかにしていきたい。
二 『離屋学訓』における「文学」
三 『離屋学訓』における「言語」
1 「言語」の雅俗
2 「言語」の花実
(1)朖の「言語」の実
(2)朖の「言語」の花
甲斐子の生家も、養家も千村氏である。この千村氏は、遠く木曽義仲の子の義基から出で、上野国千村にあって、氏の名はそれに因むと云われている。近世になると、幕府の直轄地であった美濃国久々利を支配し、しかも尾張藩にも直属する立場にあって、すこぶる富裕な豪族であった。甲斐子は成人して、尾張藩士上田仲敏に嫁した。この仲敏は進歩的な経世家であったから、彼女は当時としては、最も文化的な、恵まれた生活環境の中に暮せた訳である。国学を本居大平に学び、和歌を荻野重道に学んだ。甲斐子は文化六年(一八〇九)四月二十八日生れ、天保十四年(一八四三)九月二日に没した。三十五歳であった。