鈴木朖 年譜

『鈴木朖』(昭和42年刊)に掲載されている年譜に加えて、150年忌(昭和62年、熱田神宮での催し)、170年記念(平成19年、名古屋市博物館)を行った際に作成された年譜などを総合的にまとめたものです。

これにより朖の人生、著作等が一覧できるものになっています。鈴木朖の生涯について大まかな出来事や著作の作成時期が分かります。

また、妻や家族との関わり、本居宣長や大平・春庭との交流・門弟や知人との勉学の軌跡なども付記し、朖の全体像を俯瞰できます。

各事項は 年号 西暦 朖の年齢 の順です。

宝暦十四年(1764年) 1歳

(明和元年 六月改元)
三月三日、尾張春日井郡下小田井村(琵琶島)に生まる。父山田重蔵39歳。母ソノ27歳。四男三女の第六子(三男)なり。幼名恒吉。後通称を常介(ジョウスケ)と改む。字は叔清。離屋(ハナレヤ)と号す。

明和四年(1767年) 4歳

生まれて数歳、頴悟岐巍日に書千余言を誦し、略々その意に通ず(門人、丹羽勗撰、墓誌)

後年妻となりし横井コヨ女生まる。父は海西郡芝井新田浄土宗浄念寺の住持恵亮(中島郡奥田村正本寺の産)
弟重玄(良介)生まる。後山田家を継ぎ、良順と称す。

明和六年(1769年) 6歳

日に書千余言を誦す

明和八年(1771年) 8歳

丹羽謝庵(字彰甫号嘉言)に学びその書を借覧すること多し。
本居宣長 『直日霊』『紐鏡』を完成する。

安永二年(1773年) 10歳

文として読まざるなく、読みて解せざるなし。(丹羽嘉言、海東異録序)

十歳能く文を属す(丹羽勗・墓誌)

安永四年(1775年) 12歳

市川鶴鳴(匡)の門に入る。朖の学が徂徠学を根底とするはこれにはじまる。

安永六年(1777年) 14歳

知見開発、聡敏及ぶ者莫し。但、英気の太だ過ぐるを懼る(丹羽嘉言、漫論雑記)

安永七年(1778年) 15歳

釈梵韶の「張城人物誌」刊。文苑部に朖の名見ゆ。「山田朖(字叔清、号□□琵琶島)□山田常助

安永八年(1779年) 16歳

海東異録を著わす(謝庵序あり)

天明元年(1781年) 18歳

四月より町儒者にて祖父鈴木林右エ門家名相続(系譜)
柴田之博に医を捨てし理由を書き送る

天明二年(1782年) 19歳

此の頃より国語学に志す
離屋讀書説書き始む

天明三年(1783年) 20歳

藩校明倫堂成。細井平州総裁たり。朖を門下生として推薦せんとし人をしてその意を諷せしむ。朖行きて見えず、故に採録せられず独り遺棄に遭う(墓誌)
この年の識語ある「思問録」に古典研究の雑録を載せたり、蓋し国学への関心はこの前後に生ぜしならん。
「釆覧異言」を抄す。(戦災にて焼失せし、朖の遺書中にありし「阿蘭字母」「莫斯哥未亜国文字」と共に朖の泰西への関心を見るべし)

天明四年(1784年) 21歳

父山田重蔵(名は重房、元姓鈴木、初代山田重蔵の嗣となる)五月四日に歿59歳(法名歓喜院廓無大然居士。五月五日。誓願寺に葬る)
六月九日山田家先人の遺歯骨を誓願寺墓地に合葬、八月十四日先人合葬の墓誌を撰す。墓誌は銅板に鐫り碑下に蔵す。

天明五年(1785年) 22歳

宣長の『紐鏡』を書写し、其末に「詞玉緒」の抄を附す。
明の張位の「発音録」(元文五年本邦版)に再訂を加う。蓋しこれ以前已に漢字の音韻に興味を持ちし如く、やがて後年の「希雅」の素材をなしたものとして注目すべし(遺稿備忘録)。

天明六年(1786年) 23歳

三月十六日、丹羽嘉言(謝庵)歿。
友人鈴木朖として丹羽嘉言先生墓誌を撰す。
「天道論」を草す。

天明八年(1788年) 25歳

五月答問録を作る(離屋読書説)

寛政元年(1789年) 26歳

本居宣長 この年六十歳。三月二十一日門人千秋の請により来名。六泊す。
「送本居先生序」をものし宣長を孔子に比す
東上 母に謝庵の画きし不二の図を形見に残す(離屋文稿)
東都にて徂徠の「尚書学」「孝教識」を写す(識語)
在東中、支那韻書につき研究(在東読書摘抄)

寛政二年(1790年) 27歳

宣長、京阪地方旅行の途次、名古屋に立寄る。
朖は尚江戸にあり。離屋集所収の続軒渠録に「庚戌之秋、余在江城」の語見えたり。
真渕の「語意考」を写す(江戸滞在中)

寛政三年(1791年) 28歳

「鈴屋自撰歌」を川村正雄より借りて写す(已に名古屋にあり)
親友浅井図南歿「図南年譜後記」を撰す。

寛政四年(1792年) 29歳

二月石原正明宣長の門に入る。次いで朖も入門、この年尾張よりの入門者二十八名に及ぶ。(本居宣長門人録)
三月宣長、春庭と共に名古屋に来る。留まること二十日
鈴屋翁の「駁戒慨言」に序す(十二月)
横井コヨ(26才)と結婚

寛政五年(1793年) 30歳

長子豊業生まる。
十一月「徳行五類図説」成る。
宣長京都よりの帰途名古屋に立ち寄る。

寛政六年(1794年) 31歳

本居宣長 四月朔より来名、二十二日迄滞在。
四月下旬より五月にかけて松阪に赴き宣長の講莚に列す。大平、服部義内等と往来す。
六月「題古風物語」(離屋文稿)「答子勉論医薬書」(離屋集)をものす。
本居春庭失明す(六月以後翌年正月迄の間)

寛政七年(1795年) 32歳

二月十七日新規御近習組同心(六石二人扶持)として山田宇源治跡目となる。
三月十三日江戸勤番に出づ(乙卯東行雑記)
「山田千疇安政録」に源明公(九代の藩主宗睦、寛政十一年歿)の詠歌を見真黒に御加筆、其率直を賞せられし逸話出づ。この頃の事たるべし。

寛政八年(1796年) 33歳

三月帰名。

寛政十年(1798年) 35歳

古事記伝四十四巻終業のため本居宣長より記中の神々人々を題にし配り詠歌を乞ひ来たる。朖の題、伊邪那美神。詠歌を奉る
伊邪那美神 うめる子の一つけ故にうつくしきなせのみことを別れぬるか

寛政十一年(1799年) 36歳

御近習組同心は御手筒組同心と改称せらる。
五月宣長七十の賀を松阪に行う。朖も参会せしものと思はる(石田元季鈴木離屋翁年譜)寄岩祝
貧窮相変らず。祖父良無の廿三回忌に十分の布施不叶に付精米一器、鐐銀一片に消息を添えて送る。

寛政十二年(1800年) 37歳

『活用抄』(活語活用格)を書写させる。
三月江戸詰当番で出府。明年三月まで在府。

享和元年(1801年) 38歳

二月五日改元
八月本居氏に「活語トマリ文字の説」(言語四種論の基礎となりしもの)を送り批判を乞ふ。本居氏は大平か「活用抄目録」を附し、朖の批判意見を附記す、(活語活用格の基礎となりしもの)
本居宣長(72) 九月廿九日歿。長歌を寄せて悼む。
「活語断続図説」(活語断続譜の前身と認められるもの)成立か。
「春庭門人録」に朖の入門を記す。
「謝庵遺稿」成稿、翌年刊行

享和二年(1802年) 39歳

正月十一日御加増米一斗(六石一斗二人扶持)
宣長の「続紀詔詞解」のために序を代作。(この文流布本になし)

享和三年(1803年) 40歳

五月「大学参解」成。
六月「活語断続譜」「言語四種論」の原形「言語音声考」(雅語音声考原本)合冊、本居氏に送りたるものと思わる。
十一月、本居大平名古屋に来たり、万葉集、源氏物語を講ず

享和四年(1804年) 41歳

文化元年(1804年) 41歳

二月十一日改元
この年三月江戸詰か
江戸で平田篤胤と親交する。この年三月篤胤「徳行五類図説」に同門朖と相折衷して誌すと書く
八月七日「御記録所書役並被仰付御足米壱石、御足扶持壱人分被下置候」(勤書)(御切米八石御扶持参人分となる)
本居大平に言語活用抄(御国詞活用抄)書入本をおくり、大平これに自筆書入す。

文化二年(1805年) 42歳

春、尚江戸にあり「草枕鳥の初音に夢さめて旅のやとりに春は来にけり」の詠あり。

文化三年(1806年) 43歳

正月十一日、御記録所書役本役被仰付御加増米弐石被下置候(勤書)(御切米十石、御扶持参人分となる)
六月御記録所調御用向御省略年限中被見合候ニ付御記録所書役之名目被差止候依之御用人支配に而被差置候旨被仰渡候。座席是迄之通候旨被仰渡候(勤書)
本居春庭の「詞のやちまた」成 文化五年刊行。(「活語活用格」の上梓を取り止めしはこれによるか)従って「御国詞活用抄」を「活語活用格」と改めしはこれ以前ならむ。
平田篤胤の「鬼神新論」に序す。

文化四年(1807年) 44歳

この年の詠草に「ハナレヤ」と見える。
雅語訳解一巻成りこの年刊(石田元季氏)、但し福井久蔵氏文政三年成四年刊とす。

文化八年(1811年) 48歳

十一月季弟山田良順歿。
すなはち墓誌を撰し銅板にえりて収むること先人の例にならふ(この銅板昭和二十六年墓地改修の際発見さる)

文化九年(1812年) 49歳

九月廿九日宣長追慕の歌会を催すこと例年の如くす。

文化十年(1813年) 50歳

この年か翌年、「三大考鈴木朗説」を著す。
田中大秀の『竹取翁物語解』の稿本を訂正する。
大学参解一巻成る。この年刊行。

文化十一年(1814年) 51歳

「題某童子画」を草す。

文化十二年(1815年) 52歳

篤胤の「霊の真柱」の所説に対し、大平にすすめて「三大考弁」を書かしむ(篤胤全集二雜稿拾遺)
『三大考弁』を著す。
浜田鎌次郎(後の本居内遠)のために古事記を講ず(内遠年譜)

文化十三年(1816年) 53歳

雅語音声考・希雅合せて一巻とし、東壁堂(永楽屋東四郎)より出版、九月十五日、本居大平の序あり、その中に十五年以前に已にこの書を見しことをいう。その当時は恐らく「言語音声考」といひしものなりしならむ。
「玉の小櫛補遺」この年成る由「重松信弘の源氏物語研究史」の年表、藤田徳太郎氏の源氏物語研究書目要覧(藤田徳太郎氏)にあり。(但し、石田元季氏市橋鐸氏等の年譜には文政3年成同年刊行とす。)
市橋氏の年譜に「釈行智来名す。梵字音の質疑のため也。尾張人にして行智の大著「悉曇字記真釈」を校閲したるは、鼎・益根・朖の三人也」とあり、鼎は秦氏。益根は河村氏。

文政元年(1818年) 55歳

九月二日、生母ソノ歿(照峯院慧岸智光大姉)81歳。葬誓願寺。
十二月四日御記録所書役被仰付(徳川家記録勤書)。同日御記録所書役之儀御用人支配たるべく候。同日、書役勤向之儀懸り御祐筆組頭裁許に随ひ可相勤候(同上)
針綱神社常夜燈の銘を草す。
熱田の浦に月見

文政二年(1819年) 56歳

四月五日、著述之書籍卒業方ニ付、当分勤御免被成下御用之節ハ御記録所ヘ可罷出候(徳川家記録)

行智の「悉曇字記真釈」に序す。

文政三年(1820年) 57歳

玉の小櫛補遺二巻(文化十三年成)刊。
「論語参解」五冊成る、この年刊。(五月の自序、六月の丹羽勗序あり)

文政四年(1821年) 58歳

「雅語訳解」刊。文政三年夏市岡孟彦の序あり。
六月廿八日儒学志厚多年格別出精仕候付御儒者被仰付(徳川家記録)。同日座席高木官九郎可為次席旨(同上)。(御儒者は御目見以上の資格である)

文政五年(1822年) 59歳

師春庭六十の賀。祝歌をおくる。

文政六年(1823年) 60歳

宣長翁廿三年忌日祭会に際し、歌を送り、又、佐藤某の家にて鈴屋翁をしのぶ会をなす。

文政七年(1824年) 61歳

少女巻抄註成。刊行(?)
「言語四種論」一巻、玉華堂より刊行。

文政八年(1825年) 62歳

正月平田篤胤、尾州召抱を願出づ、朖の推挙による。
本居大平七十の賀。祝歌をおくる。
季冬仲雄のために千村家別業記(上下宮記)を草す。

文政九年(1826年) 63歳

二月篤胤藩邸の出入を許さる。

「言語四種論」再摺本出づ。

文政十年(1827年) 64歳

昨年より破損修理の金鯱落成、御作方よりの依頼により「鯱鉾御修理の祝詞」を草す。八月廿八日 妻コヨ(61)歿。葬誓願寺、観応院貞察大姉。ために墓誌を撰す。

文政十一年(1828年) 65歳

「離屋学訓」・「離屋集(初篇)」成りこの年刊行。離屋集には堀田中倫の序がある。五月六日 伯兄梁山(77)歿。葬八事山諡隆善院彜岳浄倫居士
十月、篤胤、藩侯謁見を許さる。しかるに、間もなく廩米の支給を廃せらる。茂岳の排斥によるという。
十一月七日。師春庭歿

文政十二年(1829年) 66歳

犬山針綱神社常夜灯銘文をものす。(天保元年)

天保元年(1830年) 67歳

文政十三年春、「少女巻抄註」再摺本刊。

天保四年(1833年) 70歳

正月廿日 明倫堂教授並被仰付、御加増米十石御加扶持一人分被下置(徳川家記録) (食祿、御切米弐拾石、御扶持四人分歿時まで)
勗撰の墓誌に明倫堂教授とあれど、並にして本職にあらず。明倫堂にはじめて国学を置かれ、翁これを担当し、日本書紀・古今集等を講ず。
九月十二日 本居大平歿。

天保五年(1834年) 71歳

「養生要論」成。この年刊行(丹羽勗の序あり)
この頃始めて息子山田良淳(山田家へ養子)の援助を得て西区江川端に居を持ったものと思はれる。それ迠は縁者(例えば勝田三雪)の離れに假住いの模様 離屋の号はこれより由来するものならん

天保六年(1835年) 72歳

改正読書点例(一巻)成。十二月十五日附の丹羽勗の序あり。刊行はこの年か翌年か。
本居氏の答問録成り、跋文を作る。
清人呉銭泳よりの「読離屋集初篇即題其上并序」を得、後書を附して新に板を起し巻頭に入る。
十二月十九日、学業格別志厚和漢之書物数多著述仕門弟をも取立候付別段之御吟味を以永々御徒格以上被成下(徳川家記録)

天保七年(1836年) 73歳

「続養生要論」成。六月の茂岳の序あり(天保十一年刊)

天保八年(1837年) 74歳

六月六日歿
六月十二日次子広業跡目相続願出の為、藩の記録には六月十二日病死とす。謚通靖院離山浄達居士。
丹羽勗撰の墓誌成る。
八月十二日 植松氏宅に於て離屋大人追善会あり。

 

 

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