学会誌 文莫 第24号 (平成13年3月発行)

文莫 第二十四号 表紙

本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。

 

 

 

 

 

目次
一、『ますみのかゞみ』と鈴木朖・・・・・・・・・・・・・・・・・・尾崎 知光
二、中尾義稲の和歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・簗瀬 一雄
三、美濃女小伝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木 香織
四、三川国人羽田野敬雄の前半生・・・・・・・・・・・・・・・・・・鈴木 光保

一、『ますみのかゞみ』と鈴木朖
─その「はしがき」について─・・・・・尾崎 知光

『ますみのかゞみ』と鈴木朖

 鈴木朖は安永四年、十二歳の時、市川鶴鳴の門人となった。これは彼の学問形成にとって大なる幸運であった。鶴鳴は徂徠の門人、大内熊耳の高弟で、古文辞学の秀才、十三経を暗誦し、性無欲清廉の君子で、偶々流れ来って尾張に逗留していたのであった。朖が彼から如何程の影響を受けたかは具体的に証すべきものはないが、後年の著、『論語参解』の「堯曰第二十」の暦官の注に「是古来ノ諸儒イマダ明解ナキ所ニシテ、我之ヲ市川鶴鳴先生ニ聞ケリ」と記していることによってその一端が推測されるのである。

 今ここで取り上げるのは、鶴鳴と宣長の論争から五十年ほど後の事件である。上州の人、沼田順義が『級長戸風』なる書を著し、しばらく中絶していた論争を再燃させた。(中略)本居側から反駁することのできる者は居なかったのである。

ところがそれから数年後、天保五年に思いがけない人物が立上ってこれを駁する書をかいた。信濃国の小県郡の小林文康の『ますみのかゞみ』二巻である。(中略)この書は『級長戸風』の文を数行づつ引き、これに対して一々痛駁したものである。この書には本居有郷(春庭の子)の序と鈴木朖のはしがきがあり、下巻末には山本吉正の跋がある。そこには天保五年二月とあるから、この年の刊行であろう。(以下略)

 次に鈴木朖の「はしがき」を紹介する。影印で示すように、これは朖の自筆であり、その特色をよく示した出来のよい書で、花押まで存する。天保五年といえば、朖は七十一歳、前年には明倫堂教授並となり、死の三年前の最後の輝きを見せたころである。

                鈴木朖 「はしがき」

                ますみのかゞみ 版本

二、中尾義稲の和歌・・・・・簗瀬 一雄

中尾義稲の和歌

 義稲(よしね)〔江戸期歌人・国学者〕中尾。通称は八郎右衛門。号は竹乃屋。天明二(一七八二)年─嘉永二(一八四九9年一二月二五日。六八歳。尾張藩士で、本居春庭・大平に入門し、歴史にくわしい。天保九(一八三八)年明倫堂謁者になり、岡田文園とともに『尾張志』編纂に従事した。著書は、尾張式社考・尾張旧地考・尾張續風土記・尾張氏系譜など尾張に関するものが多い。歌の関係では名所近和歌集・尾張名所歌集・本歌作例があるが、家集はない。

 右の文の最後の「家集はない。」は失考であったので、それは「家集と見るべきものに、かきねのくさ葉・御代のいにしへがある。」と訂正したい。そしてこの二部の概要をここに記すこととする。二部ともに、刈谷市立中央図書館の村上文庫に蔵する写本である。

三、美濃女小伝・・・・・鈴木 香織

美濃女小伝

 美濃は国学者本居宣長の次女で、盲目の兄春庭の著作『詞のやちまた』の再稿本を代筆し同書刊行の折に版下を書いたことでも知られる。

 しかし、その美濃が、一万九百四十九首もの和歌を残す鈴門出色の歌人であったことは殆ど知られていない。また、その伝も本居清造氏によって『本居宣長稿本全集』第一輯に

 ○美濃歌ヲヨクシ、手蹟マタ拙カラズ。兄春庭ノ失明後ハ、専ラ其ノ歌文ヲ代書ス。『古事記伝』二十五ヨリ二十九ニ至ル五冊ノ版下、マタ其ノ筆ニナレリ。」

と述べられているに過ぎない。また、『やちまた』(足立巻一著)、『本居春庭』(同著)、等の中で、宣長の娘として、あるいは兄春庭の協力者としての紹介はあるものの、それも充分とはいえまい。

 本稿では、宣長の日記、書翰類、また美濃の八冊の『詠草』などから、近世末期の女流歌人としての美濃像を改めて明らかにしたい。また付録として、美濃の晩年の書、『参宮記』の全文を紹介する。

                  参 宮 記

四、三川国人羽田野敬雄の前半生
─鈴木朖との接点に触れて─・・・・・鈴木 光保

 

三川国人羽田野敬雄の前半生

一、はじめに

 国学への関心というよりは、郷土の一先人に対する敬慕の念から、平田篤胤門の羽田野敬雄について、これまで二編の拙稿を発表した。

 それが図らずも、今年の鈴木朖学会の講師をお受けする次第となり、あらぬ道の筵に臨むためらいを、先人紹介の一機会ともなればとの願いに押し包んで、ともかく講師の責ををふさいだことである。本稿はその折の手控えによる蕪稿であり、前記二編(「羽田野敬雄の生家時代」、「羽田野敬雄の学問形成」)の旧稿と重複する面の多くあることを予めお断りしておく。

五、鈴木朖との接点

二、生家とその看経

 羽田野敬雄は、寛政十年(一七九八)二月十四日、三河の宝飯郡西方村(現御津町大字西方)に、山本兵三郎茂義の四男として出生した。幼名兵作、長じて茂雄、文政元年(一八一八)四月十日に吉田藩領羽田村(現豊橋市)の羽田野敬道の養子となって後、敬雄を名乗ることになるが、本稿では便宜に従い、敬雄の名を通して用いる。

三、志学の萌芽

四、古学への転機

五、鈴木朖との接点

五、鈴木朖との接点

 羽田野敬雄がその学問の基盤を形成して行った文政後期において、尾張鈴屋門の鈴木朖をどう視野に入れたかについて、気づいた若干の例を挙げてみたい。

 (文政)九年一月には『雅言音声考』の全写となり、板本では合冊の『希雅』はその例言のみを後語に引用した上で、「離屋鈴木朖大人著述書目」を加えるに至る。その書目は板本付載のと一部配列を異にするが、その後板行されたものについて、「已刻」または「刻成」と注記を加えている。こゝにおいては朖は、敬雄の学問上の関心の対象になったと思われる。

 翌々十一年には『言語四種論』をも写すが、このころの敬雄には言語ないし言語による表現への関心を窺わせる書写が目につく。

六、『離屋集初編』の諸版おぼえ

七、おわりに

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