本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。
目次
一、田中道全集(影印)
今を去る四十数年の昔、私は愛知県立女子大学に勤めていて、そこでの一学生の父君、枇杷島町の素封家水谷源二郎氏の知遇を得て、同氏の蔵書を一、二拝見する機会に恵まれた。
その中には、田中道麿と本居宣長との問答があり、これは御令嬢の名によって大学の国文学科の誌『説林』に飜刻、紹介され、後に筑摩書房が本居宣長全集を刊行する際にまた同氏の許可を得てその全集に収録した。
その同じ折に田中道麿の歌集の稿本をも見せられ、これも写真に撮り世に紹介することを許された。田中道麿は尾張国学の祖として重要な人物であるが、その歌集は本誌前号で復刊した「よもぎがしま」誌に紹介された不完全なものしか知られて居らず、その出現は久しく渇望されていたものであった。
水谷氏の本は全くの稿本で極めて整わぬ書き方のもので、一つ一つ解読し調整するには相当の時間と労力を要するものであったため、この書の調整はいつしか棚上げになり、年月が流れた。この書が今も水谷氏の御子孫の所に在るが否かも不明であり、それを確かめるのも容易ではない。しかもこの事にたずさわったのは、岩田隆氏私との二人のみであり、我々が黙してしまえば、この書のことは世に伝わらなくなってしまうのである。そしてそれは故水谷氏の本意にも反することになる。
今までこの書に取り組むことは躊躇してきたが、調整や研究は出来なくても、せめてその姿を世に示すことは我々のつとめであると思い、今回その影印を行うことにしたのである。
いまではその本を見ることが出来ないので、書誌的な解説も不可能であるが、当時私がメモの程度に記し写真帖に貼付した不完全な小文がある。せめてもと思い、それを次に掲げることとする。
〔付記〕本書の題名「田中道全集」は、田中道麿歌集の意である。「道全」とは道麿の法号である。誤解のないように一言しておく。
尾崎知光
平成十五年十月しるす