本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。
目次
一、鈴木朖の少壮時と国語学・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・福島 邦道
二、丹羽嘉言と鈴木朖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲 彰一
三、寛政前期の宣長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・簗瀬 一雄
「少壮」というと、「広辞苑」には、二十から三十ぐらいとあるが、もすこし広いはばで考えたい。「国語学」というのは、現代の国語学研究から見てという意味である。鈴木朖が、少壮時において、どんなであったかについては、今までも研究されているが、さらに立ち入ってしらべてみたい。そういう少壮時の英才ぶりが、三十代の終り頃、早くも国語学的に注目すべき書を作りだすのであるが、このことについて、あまりくわしく論ぜられていないことどもをのべることとする。ここにとりあげる朖の著述は、『謝庵遺稿』・『雅語音声考』・『活語断続譜』の三書であるが、『謝庵遺稿』は影印もなく、稀覯本に属しよう。
鈴木朖が丹羽嘉言の門下であったことは世に知られているが、何時いかなる状況で師事したのか、その時期や教育内容の実態などに就いては、現在必ずしも明らかにされていないようだ。
鈴木朖が今日評価の高い境涯を全くするには、その出発に当って人生の方向を決する精神的指針を與えた、幼学の師がいたことに注目しなければならない。
それが丹羽嘉言であったのは言うまでもない。
寛政元年から六年に至る間の、宣長の身辺はどうような状況であったかということと、特に名古屋の門人達の動静を宣長との関連に於て、総括的に把握してみたいというのが、本稿の目標である。