本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。
目次
鈴木朖没後百七十年記念号
一、鈴木朖没後百七十年記念に
二、[資料]
一、鈴木朖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・平出 鏗二郎
二、鈴木朖の國語學史上に於ける位置に就いて・・・・・・・・・・時枝 誠記
三、鈴木離屋・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・石田 元季
四、神宮文庫本活語断続譜の筆者に關する疑問・・・・・・・・・・岡田 希雄
五、離屋・鈴木朖・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大橋 紀子
今年は鈴木朖没後百七十年の年に当る。彼は天保八年、七十四歳で死んだ。江戸時代後期の名古屋の国学の中心人物であった。当時は徳川幕府もまだ安穏で、城下町名古屋も平和な賑わいを保っていた時代であった。しかしそれからまもなく、急変し、動乱の世となり、外国船の来航、勤皇、佐幕の争乱、やがて攘夷の戦争とつづき、二十年足らずで、三百年の徳川時代は崩壊し、明治の新時代を迎えることになった。明治の近代国家は西欧の新しい学問文化に学び、徳川時代の旧風を顧みることのない世となった。鈴木朖には門人も少なく、また大部の著述もないため、中央の学界からは無視され、かすかにその名のみ伝えられる存在となった。
その鈴木朖が俄かに脚光を浴びることになったのは、まことに不思議な偶然による。それは、国語学者として独創的な学説を提唱し、一時代を画した時枝誠記博士の若き日の一つの論文、昭和二年一月号の「国語と国文学」に掲載された「鈴木朖の国語学史上に於ける位置に就いて」である。時枝博士の鈴木朖への思い入れは、活語研究のみにとどまらず、むしろ朖の国語観そのものに深く入ったものであったが、活語研究は近世国語学史の最大の課題であり、その課題は人々に注目されていたものであるだけに、右の論文の影響は大きく、地元名古屋では当時の国文学の重鎮であった石田元季氏が早速「鈴木離屋」という、鈴木朖の学問を詳述した論文を発表し、また昭和十一年の、百年忌には岡田稔氏が主宰する「国漢研究」という研究誌が鈴木朖の研究の記念号を刊行し、活語研究を中心とする鈴木朖の研究が盛んとなった。この「国漢研究」の記念号は今では入手困難なため、「文莫」第二十一号に全册復刊した。
かくて、鈴木朖の研究は戦争時代の空白と戦災による資料の焼失をこえて、昭和四十二年の百三十年記念の『鈴木朖』の出版と記念講演会へとすすむのであり、その後のことについては今更くりかえすまでもない。ここに百七十年の記念にあたり、その出発点となった時枝博士の論文のほかに、それ以前に、最初に鈴木朖の伝記を世に示された平出鏗二郎の論文(「帝国文学」、『国学者伝記集成』収録)、また、石田元季氏の論文と、さらに「国語国文」に岡田希雄氏が発表された「神宮文庫本活語断続譜の筆者に関する疑問」と、うら若きころの大橋紀子氏が「学苑」に発表され、『文学遺跡巡礼』第四輯にも再録された詳しい報告を復刊することにした。「国語と国文学」「国語国文の研究」「国語国文」は著名な研究誌であり、それに発表されたものは復刊の要もないかの如くであるが、それらは今では遠い昔のものとなり、簡単には見られない。また平出氏、大橋氏のものは今では希覯本である。従ってこれらの研究をあらためて後世に伝えることは有意義と考えたのである。これらを研究資料としてここに再録するにあたり、その原拠となったそれぞれの研究誌に対して深く感謝する。
〔付記〕思えば、時枝博士の論文発表の昭和二年は奇しくも、鈴木朖没後九十年の年であった。そして、百年の記念には「国漢研究」の特輯があり、百三十年には朖研究の基礎をなす『鈴木朖』が出版された。百五十年には『鈴木朖逸文集』を出すことができた。そして今、百七十年の年には、右のような記念すべき諸論文を、鈴木朖研究につくした先人の跡を世に残すべき資料として、再刊することとしたのである。