学会誌 文莫 第25号 (平成15年3月発行)

文莫 第二十五号 表紙

本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。

 

 

 

 

 

目次
一、大館高門の和歌・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・簗瀬 一雄
  ─清廬集の鑑賞と批評─
二、語の断続・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・山東  功
三、『三大考』論争と本居大平・・・・・・・・・・・・・・・・・・・髙倉 一紀
  ─本居派における『三大考』の波紋─
四、田中道麿集

一、大館高門の和歌─清廬集の鑑賞と批評─
                ・・・・・簗瀬 一雄

大館高門の和歌

 高門(たかかど)〔江戸期歌人〕大館。名は佐市。号は清廬・瓊種。明和三(一七六六)─天保一〇(一八三九)一二月一三日、七四歳。尾張国木田村の豪家で、田中道麿・本居宣長に入門。のち京都に上り、一条家に仕えた。寛政三(一七九一)年、宣長の『仰瞻鹵薄長歌(ろぼあおぎみる)』を刊行した。遺歌集『清廬集(すがいお)』(弘化二(一八四五)年の序)がある。

宣長は名古屋へ出講する度に、大館邸に宿泊した。

高門の妻をはじめ、一族の者が多く宣長に入門した。

宣長の長男の春庭の眼疾の治療のため、馬島の明眼院に入院中は、親身になって世話した。

 

宣長の著述の出版に当っては、資金の援助をした。宣長の『手枕』には、高門が跋文を書き、名古屋の永楽堂から刊行したのであった。

二、語の断続・・・・・山東  功

語の断続

一.はじめに

 言語において「過程」ということを重視した国語学者は、ほかならぬ時枝誠記であった。言語を過程として捉える、時枝の「言語過程説」は、すでに学史上の基本事項として位置付けられるものであろう。そして、この言語過程説が時枝の国語学史研究と密接な関係を持っているということも、時枝自身の言及のみならず、尾崎知光氏の指摘によって明らかになっている(「言語過程説の生成」一九九八)。

 それでは、この「過程」という観点を時枝にもたらした国語学史上の知見は何であるのか。これも今日では学史上の基本事項であるだろう。言うまでもなく鈴木朖の『活語断続譜』や『言語四種論』からうかがえる言語思想である。とりわけ『言語四種論』の一節、「テニヲハゝ心ノ声ナリ」(玉華堂刊本八丁表)はあまりにも有名であり、この主張が時枝に与えた影響も

あまりにも大きいと言わねばなるまい。とりわけ『言語四種論』の一節、「テニヲハゝ心ノ声ナリ」(玉華堂刊本八丁表)はあまりにも有名であり、この主張が時枝に与えた影響もあまりにも大きいと言わねばなるまい。

二.活用と品詞分類

三.語の断続ということ

四.おわりに

三、『三大考』論争と本居大平
─本居派における『三大考』の波紋─
                ・・・・・髙倉 一紀

『三大考』論争と本居大平

はじめに

 明和五年(一七六八)十三歳で鈴屋に入門した稲掛大平は、後に本居家の夫婦養子となり、享和二年(一八〇二)その家督と学統を継承することとなった。号を藤垣内と称し、門人一千余名。当時もそして今も、彼には宣長学の忠実な祖述者としての印象がつきまとう。

 (中略)彼は宣長没後の本居派国学の中枢にあって、師説の墨守をこそ自らの使命とした。また、その意味においては、宣長学の祖述者としての大平の一般的イメージも確かに承認されることとなろう。

 しかしその一方、如何に大平が宣長の学問に忠実であろうとしても、そこに微妙な揺らぎと、無意識的な離反の芽生えがあったことも見過ごし得ない。(中略)

本稿では、こうした問題を論ずる前提として、先ずは、本居派内の『三大考』をめぐる論争と、これに対応する大平の姿を、鈴木朖(尾張名古屋・寛政四年鈴屋入門)との関わりも含めて見据えておきたい。

一 和歌山における大平の生活

二 『三大考説弁』と『三大考弁』

三 鈴木朖の大平批判

むすび

四、田中道麿集

田中道麿集

田中道麿翁は、美濃国多藝郡榛木(ハンノキ)村の人にして、通称を庄兵衛といふ。名古屋に出て呉服商本丸屋の雇人と成りしも、天性学事を好み、伊勢松阪なる国学の大家本居宣長大人に就き、専国学を修め特に萬葉集を研究せらる、翁ある日自宅にて門下を集め、萬葉集を講ぜられしに、講義の半途にふと席を起たれしにより、厠に行かれしやなど皆人思ひ居たりしも、復座せられず、後に聞けば、少し不審の事起りし故、質問のため松坂まではるばる赴かれし由、其奇行眞に凡庸ならず、(以下略)

明治四十四年四月 櫻園のあるじ記す

 

 

〔付言〕
田中道麿は、尾張国学の祖である。はじめ加茂真渕流の万葉研究に精力を注いだが、本居宣長を知り、その学に敬服し、名古屋の門人と共に、宣長に入門し、万葉集や古代語、活用語研究に集中した。天明四年、六十一歳で没し、宣長もその死を追悼している。鈴木朖はその門人ではないが、その生前に逢っている。(中略)更に詳しく重要な「田中道全集」があり、その公刊が必要であるが、それは次回に試みることにし、その前にまず右の「蓬がしま」所載のものを復刊することにした。(尾崎)

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