本誌の名「文莫」の文字は、これを鈴木朖の筆なる扁額からとって、縦に置きかえたものである。この語は、『論語』述而篇の、「文莫吾猶人也」とある句中の「文莫」の二字を連語として解したことによるもので、その意味は、朖の著『論語参解』によれば、「黽勉ト同音ニテ、同シ詞ナリ、学問脩行ニ出精スル事也」という。あるいは彼の座右の銘ではなかったかと思われる。
目次
一、鈴木朖と時枝学説・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・金岡 孝
二、離屋佚文書留・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・市橋 鐸
三、『養生要論』小考・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・桜井 進
四、源氏遠鏡(鈴木朖訂正加筆稿本)・複刻・・・・・・・・・・・・・野田 昌
五、「鈴木朗の借書簿」訂正と補遺・・・・・・・・・・・・・・・・・水野 清
─「文莫」4号─
昭和42年6月に鈴木朖の百三十年忌を記念する催しが当地(名古屋)で行われましたが、その折、時枝誠記先生は記念講演をなさいました。文字におこしたものが、「時枝文法の成立とその源流─鈴木朖と伝統的言語観」というのがそれでございます。
その折のお話しの中に、鈴木朖の「活語断続譜」と先生の大学の卒業論文との関係にまつわるお話がございました。
一、離屋と古ぶりの歌
いまとなっては、愚痴っぽい話になるけれど、この頃まで鈴木朖の自筆稿本の歌稿が、名古屋図書館に保存せられていた。それは六冊の大本で、相当分厚なものだったから、一万首は楽に越していたように思う。そのなかに古ぶりの歌と特にことわり書のしてある万葉調のものが、相当あって、それだけは片仮名になっていた。
二、白鷺解
鈴木あきらの自筆稿本のコレクションが、名古屋図書館に在庫していたことは、かなりその道では有名であった。後日の為にとて詳細な目録までこしらえて置いた。何しろ断片的な草稿の山なのでそうでもしておかなければ、とてもものの用にたたないのである。ところが例の戦災できれいさっぱりと灰になってしまった。ただ興味のむくままに写しておいた若干だけが形見となって残り、この白鷺の解もその形見の一つなので、何くれとなく気のむくままに書きしるされた断片を、雑然と綴りあわした「離屋雑纂丙集の一」といふもののなかに収められていたのである。
離屋鈴木朖は、医家に生まれながら、学者として自己を実現していった。かれは、「国を経るの志、世を輔くるの義」無きが故に「医は賤業」であると断定するが、それは医の全面否定論ではない。むしろ、現実の医のありようへの批判に支えられた、医の理想を求めることばであった。
栗田直政は鈴木朖の門人で、その著、『源氏遠鏡若紫之部』二巻は彼が師鈴木朖の訂正を乞うて刊行した、若紫の巻の俗語訳である。その稿本を見ると、直政の訳文に対して、鈴木朖の訂正が極めて多く、朖による改善という感じさえするが、このことは学界でも未だ指摘されたことを知らない。即ちこの書は、栗田直政の業績であると共に、その師鈴木朖の源氏研究を知る上での貴重な資料と称すべきものである。(尾崎記)